・1945(20)年
この地域の最初の入植は大富の22戸
→以後10年東亜石油ガソリンスタンド東側の仮設小屋(笹小屋)での生活がスタート
豊畑25戸、平井出5戸入植
それぞれ仮設小屋を、豊畑はリゾナーレ小海線踏み切り近く、東和はほぼ現状位置で
・1946(21)年
東和15戸入植2町7~8反/軒 交換分合はなし
4部落まとまり帰農組合を設立
(70戸、241人、271町歩)
取りあえず、手始めに麦・雑穀、豆類、芋類等の作付けをはじめる
・1947(22)年
Hさん宅には大東豊ではじめて馬が入る。博労多く来る
大富:部落設置願いの提出(S23/4承認)
東和も部落設置願いを提出する
まだまだ自給自足の生活が続いていた
・1948(23)年
4っの帰農組合を解散→開拓農業協同組合の設立、併せて地域の農業協同組合にも加入
水源調査 弁当、ツルハシ、シャベル持参し旧鉄塔集合
尾根に搾油・製粉工場を造ることの総会(浅川さん宅倉庫を借用)
ライ麦 平均4俵/戸の収穫あり、大根の栽培も本格化する
融資制度を活用して和牛や農機具も導入されだす
組合の搾油等の農産加工工場稼動開始
・1949(24)年
大根栽培による現金収入が増えだす
(しかしS34年、農協での採算とれず終幕)
アメリカの援助であるララ物資の配給始まる。
役場まで受け取りに
大東豊、篠原地区に電設組合設立
観音平の延命水を棒道火の見櫓の貯水槽まで布設する
・1950(25)年
ホップ組合設立準備会(東和と大富で)
この時期の村民税 400円
建設労働者の日給 200円
農耕牛が幾軒かに導入されだす。
東和にジャージー牛入る
東和地区:電気設置工事(工事期間 11月23日~12月2日 )
大富地区に電灯灯る(但し唐沢宅あたりまでで、全体にゆきわたるのは約10年後)
・1951(26)年
開拓道路開通(現在の県道608号)
(小淵沢→小泉→大泉→長沢 : 11km)
大富:土地の売渡し、2町6反/戸、当時26戸あり
しかし各戸は銘々権利書を貰うも、まだ登記には至らず
・1952(27)年
鹿の水湧水からの引水をはかるも水量が期待するほど出ず
東和ではホップ生産目標60kg以上の号令
東和の公会堂が竣工する
・1953(28)年
八ヶ岳地域が集約酪農の地域に指定される
多くの家で乳牛の飼育がはじまる(最初はジャージー牛が主体)
土地の所有権登記の手続きが具体化する
東和部落の全員が受領書に押印する
大富では Hさん宅が最初に下の仮設から上へ移動する
・1954(29)年
小淵沢町の発足(小淵沢村と篠尾村が合併する)
八ヶ岳酪農組合の設立(小淵沢農協と雪印の間で)
大富地域の入植者・・・順次、下から現在の場所に移る
国の施策でジャージー種からホルスタイン種へと転換を推奨
冷害作物等の減収率は80%以上に
・1955(30)年
高冷地野菜として、レタス、大根、馬鈴薯が推奨されだす
そろそろ搾乳機の導入が始まりだし、手作業での搾乳時間が軽減される
経営診断不振地区対策で県担当者よりお叱りを受ける
酪農経営になり、確実な現金収入が得られ生活も安定する
・1956(31)年
機械開墾の導入 全員で道路補修作業
しかし大東豊はまだまだ開墾も続いている期間だった
この頃ジャージー種に代わるホルスタイン種の乳量 平均3,800kg/年
・1957(32)年
資金援助等により営農での自立、更に酪農に移行推進
農耕用テーラーが普及してくる
土地の交換分合で現在の敷地がほぼ確定となる
公衆電話、東和のK氏宅に設置される
・1958(33)年
開拓農協の農産加工場を正式に閉鎖する
八ヶ岳山麓に開拓営農指導員駐在所 : 所員常駐する
大富に第三公民館をつくる(木本さん宅隣り)
・1959(34)年
小淵沢農協における沢庵大根の処理加工が終了する
連作栽培により大根の品質が低下し、沢庵の需要も減退
8月、台風7号山梨県に襲来
9月、伊勢湾台風(15号)による被害が大きい
・1960(35)年
豊畑、平井出地区:仮設小屋から現在の地へ移る
しかしまだ電気はなくランプ生活が続いた。翌年に点灯する
小淵沢町としての乳牛の飼育がピーク 695頭/343戸(小淵沢全体で)
・1961(36)年
酪農と高冷地に適した野菜栽培計画の推進
待ちに待った集乳車がやっと各酪農家の前まで入る
この頃より延命水からの水量がいろんな要因で減少しだす
従って導水ラインの保守点検作業が、毎月のように数年続く
・1962(37)年
3部落共同で40馬力のトラクターを借用し耕作する
大東豊での飲料水が不足しだしたので、毎日タンクローリー車で
小淵沢の八酪から棒道の貯水槽まで水を運び入れる。4~5台/日
・1963(38)年
ゴルフ場北側での深層ボーリングが本格スタートするが苦戦続き
そのためローリー車での給水は水脈発見まで数年継続される
・1964(39)年
3部落がまとまり大東豊区が成立する
篠原・女取・大東豊の組合解散→一般の農協となる
これにて国の開拓政策は実質上終焉となる
東京オリンピックの余波で多くの家にテレビが入りだす
乳牛資金185万円で、東和9頭、大富9頭、豊畑8頭のホルスタイン種を導入
・1965(40)年
この地域に不動産業者が入ってくる
水道メーター検針 この頃から断水の心配も解消される
大富公会堂・地下集荷場竣工
木造平屋25坪、115万円
大富 土地登記の為の実測図面作成にはいる
・1966(41)年
相変わらずこの頃も山火事が多発する
その見張り役として火の見櫓に3名1組の当番を出す
ようやくボーリングが成功し130t/日の地下水を発見する
小淵村20周年を祝う
・1967(42)年
・1968(43)年
23年ぶりの大雪、全員で除雪作業
東和・大富に街路灯5ヶ所設置
豊畑公会堂完成
・1969(44)年
清里が山梨県の指定民宿地域に指定される
大富のAさん宅にも小型トラクターが導入される
豊畑~大富間1,200m道路完成する
東和公会堂の建設
3地区の導水管拡張工事(基盤整備事業予算にて)
・1970(45)年
各戸で普通電話の加入が始まる
東和墓地の区画確認
・1971(46)年
小淵沢過疎地域に指定される
・1972(47)年
小淵沢にペンションや乗馬牧場の登場
小淵沢高原民宿組合の結成
加工トマトの出荷終える
大東豊公民館 木造154㎡完成
ボーリング工事完成祝賀会
・1973(48)年
民宿まきば荘が大東豊での第1号民宿となる
本年度より小淵沢農業協同組合になる
・1974(49)年
豊畑部落で豊平神社を建立する
町制施行20周年の祝い
・1975(50)年
・1976(51)年
大富公民館前の東西道がこの地域で一番に舗装される
この時期東和では農業専従者がいなくなる
・1977(52)年
大東豊飲雑用水施設が町営簡易水道に移管される
・1978(53)年
・1979(54)年
小淵沢開拓農業協同組合の結了総会
開拓之碑が建立される
望月知事 他を迎えて11時半除幕式
・1980(55)年
・1981(56)年
・1982(57)年
・1983(58)年
・1984(59)年
・1985(60)年
・1986(61)年
・1987(62)年
・1988(63)年
大門ダムの水が小淵沢にも供給開始される
(3,000t/日)
・1989(64)年